『鯨とり』リバイバル

韓国映画史上に残る名作、『鯨とり』が待望のDVD化。制作・販売を手掛ける西ヶ原字幕社が舞台裏をお伝えします。

susu

スポンサーサイト

susu

susu

すすはらい

すすはらい

字幕入れにSSTを使おう

 志のある韓国映画を観ようと思うと、自主上映会や映画祭に出向くこともしばしばですが、そのたびに思うことがあります。それは「日本語字幕を作るのに、SSTを使おう」ということ。
 SSTとは、わが西ヶ原字幕社でも日々活躍するカンバス社の字幕制作ソフト。放送局やDVDメーカーなどの業界内部ではおなじみですが、一歩業界の外を出ると、浸透度は著しく低いのが現状です。
 先日も、とある映画祭で映画を観ましたが、字幕がアバウトなのが気になって仕方がない。SSTを使えばもっと精度の高いものができるのに、なぜ使わないのだろう。価格が高いせいで、敷居も高いと思われているのだろうか?
 思えば昨年の「南営洞1985」上映会。後発組の私が実行委員に加わった頃には、字幕入りの映像はできていました。その作り方を聞いて唖然。後述しますが、技術的に恐ろしくローテクで、手間のかかる方法で字幕を付けていたのです。これでは、字幕がきれいに出るわけがない。SSTを使えば、おそらく100分の1の労力で、10倍きれいな字幕入り映像を作れます。
 おそらく、字幕翻訳者は映像編集を知らず、映像編集者は字幕翻訳を知らないことが、こうした事態を招いている――両方やる私はそう声を大にして言いたい。そこで今日は、映画祭や自主上映会などに関わる人に向けて、使っている人には周知の事実、使っていない人にも知ってほしい、SSTを使った字幕入れ作業を概説します。


 最初に2つ前提を。世の中では「字幕」と「テロップ」を区別せずに使っていますが、ここでは次のように区別します。
「字幕」とは外国語の音声に対する訳文として画面に出すもの、とします。一方の「テロップ」は、画面の状況を説明したり、演出的に面白さを強調したりと、装飾として出すもの、とします。
 もう一点。字幕であろうとテロップであろうと、映像に文字を重ねるには編集作業が必要です。10年ほど前までは、「卓」と通称される、テレビ局にしかないような高価な編集機材が必要でした。ところが近年、ファイナルカット、エディウス、プレミアといった、パソコンの編集ソフトがその代わりをできるようになりました。現在、SSTを使おうが使うまいが、字幕入れの作業の9割方は、編集ソフトを使って行われています。

 本題です。SSTを知らない人が字幕をつけようとすると、端的に言って、テロップと同じ要領で「字幕」を入れようとするのです。今や無料の編集ソフトにさえ、テロップ(タイトルという呼び方もします)を入れる機能がついています。「字幕」と「テロップ」を同じものだと思っている人は、この機能で「字幕」を入れられると考えてしまいます。実際、やってやれないことはないですが、それこそ、とんでもなく手間のかかった、美しくない字幕の元凶です。

 どの映像編集ソフトも、タイムラインという時間軸上に映像や音声を並べます。ここでテロップ機能を起動させると、「○分○秒から△分△秒まで××という文字を、どういうフォントで画面上のどこどこに表示する」という指定を、いちいちするよう求められます。装飾としてのテロップならば、フォントや位置もその都度変えられたほうがうれしいですが、一定の場所やフォントで淡々と出したい字幕にとっては、無駄な手間です。10個や20個なら、無駄もそれほど苦になりませんが、百個なら?千個なら?単純作業に耐性のある私でさえ、考えただけで嫌になります。
 さらに「○分○秒から△分△秒まで」という指定も、「字幕」にとっては大まかすぎます。画面の説明である「テロップ」なら、だいたいその辺りに出ていればいいでしょう。しかし「字幕」は、外国語の音声に対して出すもの。通常は音声の始点や終点を、1秒の30分の1の「フレーム」という単位で指定します。このフレーム単位の微調整をテロップ機能でやろうものなら、2時間の映画1本で数十時間が飛びます。
 一端まとめます。「字幕」と「テロップ」は、画面に文字を重ねる点では共通ですが、性格は違います。映像編集ソフトのテロップ機能は、音声に対してきれいに、そして淡々と文字を重ねたい、字幕入れの用途には不向きです。

 そこでお勧めしたいのが、SSTで作ったデータを編集ソフトに読み込ませるという方法です。詳しい手順は省略しますが、結論だけ言うならば、字幕のテキストを画像データに変換し、タイミングデータに従って自動的にタイムライン上に並べてくれるのです。あとは元の(字幕の入っていない)映像をタイムラン上に置き、重ねてやれば完成です。
 SSTでは、タイムラインに音声の波形が表示された状態で、カーソルをフレーム単位で操作して、字幕の出入りのタイミングをマークできるので、音声に対してきれいに字幕が出るよう、タイミングデータを取ること(スポッティングとかQ打ちと言います)ができます。スポッティングを取ると字幕入力欄ができ、そこに文字を入力すると、モニター上にも表示されます。こうして作ったデータを編集ソフトに読み込ませれば、「○分○秒から△分△秒まで」といちいち手入力する手間も、ズームスライダーをちょこちょこして微調整する手間も、一切いりません。
 
 「もうひとつの約束」の字幕入れも、この方法でしようと、以前知り合ったビデオジャーナリストに作業をお願いしたのですが、「SSTはよく分からない」と言われ、断られました。こちらがSSTでデータを作れば、彼の作業なんて、タイムライン上で重ねて書き出すだけ。結局、業者に頼みましたが、マスターがHD(高解像度でデータ容量が重い)でなければ、06年購入のうちのおんぼろ編集ソフトでもできることです。ああ、HDがサクサク編集できるマシンが欲しい…。

 言葉で説明しても、なじみのない人にはなかなか伝わらないと思います。ただ、私が言わんとすることは、「低予算で意義あることをやろうと思うほど、新しい技術に目を向けよう」ということです。皆さんがDVDやテレビで見るような、音声に対してきれいに出る字幕を付けるのは、今や決して難しいことではありません。確かに、ほんの10年前までは、2千万円くらいする専門機材がないとできないことでしたので、「そういうのはプロに頼まないとダメでしょ?うちはそんなお金ないんだ。厚意で字幕付けてくれる知人がいるから、その人に頼むよ」と考えるのも無理はありません。でも、コンピューターの性能は日進月歩。新しい技術を使えば10分で済む作業を、知人は10時間かけてやっているとしたら?彼に払うご苦労さん代10万円は、心得のある人に頼めば5万で済むかもしれません。
  
 私も、自主上映会のごときボランティアで運営する催しに、プロ的なものを持ち込むことに抵抗がないわけではありません。また、身の丈に合わないことをする必要もないと思います。手弁当もまたよし。音声に対してきれいに出ない字幕も、それで見た人が満足なら、揚げ足を取るつもりはありません。でも、字幕入れにSSTを使おうという提言は、そのいずれでもありません。安くて短時間に、きれいな字幕を付ける方法があるよ。皆さんもぜひ、ということです。

 問題はSSTが高価だということです。断言しますが、SSTというソフトをまだ購入していない人に、購入を勧めることは断じてしません。SSTは字幕データを売り物にする商売以外では元が取れません。あなたがまだ購入していないのは、そこに該当しないからです。うちが編集用パソコンを新調できないのと同じです。
 では、どうするか。SSTを持っている人を探して、協力してもらうのです。SSTは個人翻訳者でも所有していますので、業者に頼むほど構えなくてもいいでしょう。ただ、個人翻訳者の中には、字幕データを作ることに留まって、編集ソフトに読み込ませるといった工程を知らない人もいます。まあ、そういう時は西ヶ原字幕社にご連絡ください。なるほど、コンサル業ってこういうことか!

東亜企画絵巻

アジア図書館で「セシボンから読み解く韓国ロック事始め」という講演をしました。
キム・ヒョンシクが男前で大酒飲みでケンカが強かった、みたいな話をしたら、
早速お客さんが画像検索をしてくれました。
「歌っている人の顔を見ると、親しみがわく」と言われ、
VAMPの韓国ロックデーで、「東亜企画絵巻」なるものを配ったことを思い出しました。
原寸大でアップしておきますので、ご活用ください。

東亜企画絵巻

某キー局のニュースから取材を受けました

映像翻訳者/西ヶ原字幕社代表として
某キー局のニュースから取材を受けました。

日韓国交正常化50周年の今年、締約日である6月22日に特集を組むので、
取材をさせてほしいと電話があったのが去る金曜。
てっきり大枠は決まっていて、
識者コメントを求められるのだろうと思い、OKしました。
ところが話が進むうちに、韓国に関わったきっかけや、生業のこと、
はたまた韓国ロック愛好家の憩いの場、高円寺VAMPまで
取材の対象になり、まさかの展開となりました。
この件、OAされるまでは現在進行形。詳細への言及は控えます。

目を向けてもらったことはありがたいですが、
同時に、最終的なアウトプットに対して
コントロールが利かない状況に、不安を覚える今日この頃です。
以前、雑誌の取材を受けた時は、公表前に原稿が送られてきました。
今回も、何らかの形で事前にチェックできると思っていましたが、
そういった規定はないそうで、先方の裁量というか良心というか、
そういうものに委ねられている状態です。

識者コメントを求められると思っていた段階で、林原はこう言いました。
「私も映像制作の末席を汚す身、落としたい結論があって、
自分がパーツとしてハマるかどうか、審査されているのだろうと思います。
どういう発言をお求めか、お申し付けください。
それが私に言えないことなら、お断りしますし。」
最終的なゴールが共有できていれば、
いかに分量が少なかろうが、一部を切り取られようが、
いいように使ってくれ、というスタンスでいられます。
(先日のハンギョレの記事などが、その例です)

ところが今回は、落としどころが今ひとつ見えない。
だから不安だし、事前チェックも欲しいし、
自信を持って周りに「見てね」とも言いづらい状況です。

先方のお人柄には好印象を受けますし、
VAMPの面々も、真摯な取材だったと評しています。
ただ、それとこれとは別問題。
真摯な方、真摯なテレビ局だからこそ、
取材対象のケアにも万全を尽くしてくださると信じています。

座談会:語り継ぐ第一次韓国ブーム(後篇)

(本稿は2010年8月に西ヶ原字幕社のニューズレターに掲載されたものです。)

韓流ブームの到来により、埋没しつつある第一次韓国ブーム。
風化の危機を感じた清水由希子と林原、そして林原の大学の後輩で、
㈱KNTVの社員である堀越亮平が、前号と今号の連載で、その体験を語り継ぎます。

清水:2002年のワールドカップを経て、2003年あたりから、
「ほほ笑みの貴公子」とともに韓流ブームがやってきました。
林原:正直、すごい違和感がありましたね。
我々のあずかり知らぬところで、膨大なファン層が形成された。
清水:第一次世代としては、どうしても疎外感を感じますよね。
林原:元々、疎外感には慣れっこなのですが、今までとは異質な疎外感ですよね。
思い出すのは、「英雄時代」(*1)というドラマの字幕をつけた時のこと。
とある掲示板に「『英雄時代』、面白いです」という視聴者の書き込みがあったんですが、
そこで「パク・ジョンイルってすごい人だったんですね~」と。
韓国のパク・チョンヒと北朝鮮のキム・ジョンイルを混同している。
間違うこと自体が悪いわけじゃないですよ。ただ、
僕らにとっては穴があったら入りたいような間違いを、平気でしてしまう人たちが、
こんなコアなドラマを見る時代になったのかと、衝撃を受けました。
堀越:僕は中学時代からの趣味が高じて韓国関係の職に就いたわけですが、
日を追うにつれ、計算尽くしの商業的な視点なしには韓国と関われなくなってきた。
そう思うと、寂しい気がしますね。韓流には「愛」がないのかな、と。
林原:月並みな言い方ですが、韓国が、めでて学ぶ対象から、
消費する対象になったということですかね。

■否応なく背負った、重たい部分
林原:最近の韓流ファンと話していて気になるのは、
「難しいことは置いといて」という態度です。
日帝36 年も在日も民主化もすっ飛ばして、韓国を語る。
3 月1 日(*2)や6 月29 日(*3)は知らないけど、韓流スターの誕生日は知ってる。
清水:以前なら、韓国と関わりたければ、
否応なしに重たい部分を背負うほかありませんでした。
それを強く感じたのが、学生時代、チャンゴ(*4)を習っていた時のことです。
ある日、日本人女性が新たに加わったのですが、
彼女は根っからのパーカッション好きで、
チャンゴも楽しい打楽器のひとつとしか見ていなかった。
でも、そのサークルの大多数を占める在日コリアンにとって、
チャンゴは、長年の苦悩と想いが詰まった特別な楽器なわけです。
堀越:長い間、隠して生きざるを得なかった、
民族的アイデンティティの象徴ですからね。
清水:あの時の練習場で流れた、何とも言えない微妙な空気が
今でも忘れられません。韓流ブームに感じた違和感は、
あの体験の延長線上にあるようです。
林原:僕はこの年になってようやく、韓国に対する力みが抜けました。
それまでは、ふと口をついて出る自分の中の差別意識に悩んだり、
韓国人と激論を交わしたりと、格闘の連続だった。
それを経て、やっとたどり着いた自然体なんです。
堀越:その点、韓流ファンは最初から身構えていませんよね。
清水:力みといえば、韓国側も、日本や日本人への接し方が
昔のように画一的ではなくなりましたね。
90 年代以降、海外に出る韓国人が増えたことで視野が広がった結果でしょうか。
林原:韓国の若い子だって、「日本は過去にわが国を侵略し…」なんて話より、
「私もチョン・ウソン好き~」ってやってるほうが楽しいでしょう。
でも、それでいいのか。日本人のほうはともかく、
韓国人にはやっぱり無理させてるんじゃないかな。
本当は心にモヤモヤを抱えているのに、ないことにしている。
堀越: 2002 年のワールドカップも、そのあとの韓流ブームも、日本の独り相撲なんですよ。
ワールドカップの時、たまたま韓国にいましたが、
日本と共催しているという意識はまったく感じられなかった。
むしろ、日本が失点するたびに歓声が上がったり。
韓国のほうは何ら変わっていない。
韓流ブームだって、日本は世界各地に韓国文化を輸出するなかで、
たまたま金になった相手国にすぎないんです。
清水:でも、人の交流は確実に増えましたよね。
私の印象では、中高年の韓流ファンはまじめな人が多い。
韓国語の勉強から始めて、歴史にまで目を向ける人も増えているので、
悪くない流れだと思っています。
林原:韓流ブームがきっかけを提供するという意見ですね。
僕は、その見方には否定的です。メンタリティが違うというか。
異質なことや難しいこと、それと格闘することを
プラスと捉えるか、マイナスと捉えるかですよ。
清水:私も、限界を感じたことはありました。友達から韓国映画について
「必ず軍歌が出てくるよね」と言われたんです。
民衆歌謡(*5)のことだと思うのですが、
社会的な背景を知らない目には、そういうふうにしか映らないんですね。

■第一次韓国ブーマーたちよ、声を上げよ
堀越:昔も今も、日本で生きていくうえで、
韓国に興味を持つ必要性はないわけですよ。僕の場合は、
「世界を見る=アメリカを見る」という図式が一般的だった時代に、
すぐ隣に韓国という別の文化圏があることにたまたま気づいた。
それを知らずに生きていくのは損かもしれないと思って、入り込んだだけですから。
林原:僕だって、第一次韓国ブームのメンタリティを、
今の韓流ファンに強要したり、啓蒙したりする気は、さらさらない。
ただ、「手強いからこそ夢中になれた」という、
あの頃の楽しみ方を伝えられたら、とは思います。
「韓流なんてダメだ」と背を向けるでもなく、
「学ばずして韓国を語るなかれ」と説教するでもなく。
清水:なるほど。
林原:僕が危惧しているのは、韓流ブームによって、
第一次韓国ブーマーたちがひきこもってしまうことです。
今こそ我々が声を上げるべき時、その方法論を再構築するべき時です。
そのために、我々が何にひかれてきたのか、何を蓄えてきたのかを、
今一度見つめ直す。そしてそれが、それこそ今の韓流ファンに伝わるよう、
言語化する努力をしようというわけです。
そう考えると、彼らは拒否反応がないだけ有望ですよ。
そこから先は、我々の腕の見せどころです。
清水:何だか、林原さんがやろうとしていることが分かってきた気がします。
長い時間、お付き合いいただきありがとうございました。

(*1)韓国を代表する2大財閥、現代と三星の創業者をモデルに、
1930~70 年代の財閥の成長過程を描いたドラマ。
(*2)日本の植民地統治下である1919 年に全国的な抗日運動が起きた日。
韓国では今も祝日に定められている。
(*3)1987 年、民主化運動の高まりを受け、次期大統領候補であった盧泰愚が、
大統領直選制への改憲、政治犯の釈放、労働三権の遵守を宣言した日。
(*4)韓国の伝統的な打楽器。
(*5)学生運動や労働運動を鼓舞するため歌われたプロテストソング。

セシボン解説

(この文章は2015年3月19日のくじら雑技団月例ライブ於高円寺Salon de VAMPで配布したものです)

 1997年の金大中政権誕生以降、70~80年代の軍事政権下で音楽活動を展開した先人たちを再評価する動きが活発化した。世に言う「7080ブーム」である。このブームのきっかけになった出来事を2つ挙げるなら、ひとつは1998年、ウェブマガジン「Sub」が中心となった韓国大衆音楽史百大名盤の選定、もうひとつは2010年、MBCのバラエティ番組「遊びにおいで」に、往年のフォーク歌手たちがそろって出演したことであろう。彼らこそ、フォーク喫茶セシボンに出入りしていたチョ・ヨンナム、ソン・チャンシク、ユン・ヒョンジュ、キム・セファンら、通称「セシボンの仲間たち」である。
 フォーク喫茶セシボンは、60年代中盤から70年代初めにかけてソウルの武橋洞に店を構え、フォーク歌手やそのファンのたまり場になっていた。店名はC'est si bon、フランス語でSo Goodを意味する。「セシボンの仲間たち」の括りには、上記の4人にイ・ジャンヒを加えることが多いが、イ・ジャンヒはその後自らのレコード会社を立ち上げるも不渡りを出してアメリカに逃避した過去があり、イベントやテレビに出演しないこともある。
 セシボンの音楽史的に注目すべき点として2点を挙げたい。ひとつは、彼らが海外のフォークソングのカバーをレパートリーにしていたことだ。ソン・チャンシクとユン・ヒョンジュによるフォークデュオ、ツインフォリオは68年にアルバムを発表するが、収録曲はすべて外国曲の翻案である。原曲歌手の国籍もクリフ・リチャード(英)、コニー・フランシス(米)、ナナ・ムスクーリ(ギリシャ)、ミルヴァ(イタリア)など多岐に渡る。チョ・ヨンナムもトム・ジョーンズの「Delilah」をはじめ翻案曲が多い。ソン・チャンシクがソロデビュー以降、作曲家としても活躍していることから、曲を自作する能力がなかったというよりも、戦略的に翻案曲というスタイルを選んでいたと考えられる。
 これには当然のことながら、当時の世界的な潮流も影響している。60年代は各国が第二次大戦の戦火からようやく復興し、レクリエーションを楽しむ余裕が生まれてきた時代だった。とはいえ、趣味や娯楽は今のように個人化されておらず、集団で楽しむものだった。ギター1本で伴奏でき、メロディーや曲構成が覚えやすく、集まった人たちが声を合わせて歌えるフォークソングは、全世界的に人気を博し、優れた楽曲は国境を越えて愛唱された。また、ベトナム戦争、公民権運動など社会的な矛盾が噴出する中、ボブ・デュラン、ピーター・ポール・マリー、ジョーン・バエズらが世相を鋭くえぐる作品を発表。メッセージの媒体としての役割も与えられたフォークは、社会の混沌に引き寄せられるように一大潮流となっていった。
 もうひとつの注目点は、当時の韓国の文脈にある。時の大統領は1961年にクーデターで政権を取った朴正煕で、セシボンの活動時期は18年に渡る軍事独裁政権の只中に当たる。朴政権と言えば75年の緊急措置第9号(通称、歌謡浄化措置)など、音楽に対する露骨な弾圧で知られる。海外文化の流入にも恣意的な統制がかけられ、鎖国状態に置かれた韓国の諸文化は停滞を余儀なくされた。このインパクトが強烈であるため、朴正煕政権下の18年間はおしなべて強権的だったと考えがちである。
しかし、クーデター当初の朴正煕は、庶民の出身であることを強調し、民意に寄り添うパフォーマンスを見せていた。何せ韓国は直接民主制の国、大統領選挙がある限り人気取りは必要である。それが徐々に強権的な独裁体制に変化するわけだが、メルクマールは、71年の大統領選挙で金大中に僅差に迫られたことをきっかけに断行された憲法改正、いわゆる維新憲法の制定である。歌謡浄化措置のごとき笑ってしまうような弾圧は、マクロレベルでは72年以降と考えるべきである。つまり、セシボンの活動期間は朴正煕政権が「庶民の味方」から「軍事独裁政権」へと姿を変える時期に当たる。
 筆者が映画「セシボン」に期待するのは、こうした時代状況の再構成である。第一に、なぜ当時、外国曲の翻案に特化する戦略が取られたのか、そしてミュージシャンはどんな経緯でそうした音楽に触れ、リスナーはなぜそこに惹かれたのかを、丹念に描写してほしい。韓国での評論を読むと、当時の若者の間には海外文化への憧れと、演歌に代表される自国文化への幻滅があったという。海外文化へのアクセスは、後世で言われるほど難しくなかったかもしれない。
歴史をひも解くと、韓国は50年から3年間、米軍と共に戦争をしている。戦後も東西冷戦の最前線として米軍が国中に駐留し、「パックス・アメリカーナ」と呼ばれたアメリカ文化を持ち込んだ。韓国ロックの父、申重鉉がビートルズやローリング・ストーンズとほぼ同時期に同様の試みをできたのも、米軍向けラジオで最先端の音楽に触れ、米軍のステージで演奏して収入を得られたからに他ならない。ユン・ボクヒやキム・シスターズなど、アメリカに渡って本場のショービジネスに身を投じる人がいたことも、維新体制以前の海外(特にアメリカ)との近さをうかがわせる。
そして、そうした時代が変化していく過程も描けるのが、セシボンを取り上げる積極的な意味であろう。好きだった音楽が徐々にやりづらくなる、理不尽な理由で横槍を入れられる、長髪・ミニスカートの取り締まりや夜間通行禁止令によって、時に悲劇が、時に喜劇が生まれる――そうした、その時代を生きた人の感覚を今に伝えてほしい。それは、セシボンを取り上げることでしか描けないことだから。セシボンを、そして韓国を愛する者として、映画「セシボン」が単に自国の過去を消費する作品でないことを祈る。

林原圭吾(映像翻訳者・くじら雑技団団長)

すす

字幕翻訳者として観る「もうひとつの約束」

「もうひとつの約束」の上映会が4週間後に近づきました。
昨日、字幕の最終版を仕上げ、ミックスに回しました。
40万ほどかけて映像編集用のパソコンを新調すれば、
うちでもできる作業なのに、
業者さんに頼む身の上が悔しい今日この頃です。

最終版を出した記念に、翻訳者らしく、
セリフの韓国語表現から、この映画を解説しようと思います。

開始70分頃に、亡くなった娘の労災認定を求め訴訟を起こした
江原道の束草(ソクチョ)のタクシー運転手、サングのタクシーに、
ジンソン半導体の人事部のイ室長が乗り込み、示談を迫るセリフ。

사모님 모셔올려면 집도 새로 지어야 하고
(奥様を連れてこようと思ったら家も新しく作らないといけないし)

当初「奥様のために家も新しくしないと」と訳していたのですが、
最終的に「奥様のために家も新しく用意しないと」に変えました。
ここにこだわったのは、このセリフの空間表現が、
この映画の世界観、もしくは本当に突かねばならない対象を、
示していると思ったからです。

よく言われることですが、韓国語の空間表現は文脈依存性が高く、
「どこ」に当たる部分を明言しないことが間々あります。
このセリフも、「奥様」をどこに連れてくるのか、言っていません。
つまり、言外の共通認識を臭わせているわけです。

イ室長はソウル本社勤務で、
サングの告訴を取り下げさせるため、束草に来ています。
サングと妻は束草の海辺の、小さな家に住んでいます。
字面と話者の立ち位置から判断すると、
連れてくる場所は、イ室長のホーム=ソウルである可能性が高い。
しかし、サングは裁判のためにソウルに往来しはしますが、
そのために一家あげての引っ越しを考えているとは思えません。

このセリフが引っかかったきっかけは、先日の試写会で、
この事件を取材してきたNHKの立岩記者にお会いした際、
「被害者は誰一人ソウルに住んでいない。みんな地方にいる」
という話を聞いたからです。
韓国は、ソウルと釜山を結ぶ京釜線沿線を中心に開発が進みました。
江原道はそこから外れた、日本でいう「裏日本」的な存在です。
わが故郷・鳥取県と姉妹交流を結んだというのも、お似合いです。

劇中も、成績優秀なユンミが、高卒で半導体工場に就職します。
給料は基本給80万ウォン(約8万円)プラス歩合給。明らかに安い。
それでも大企業で給料がいいと、周りからは羨望の目で見られます。
ユンミの弟、ユンソクはジンソンに懐柔された末に、
「束草に仕事はない。父さんのように生きるのは嫌だ」と言います。
サングは、「人々があざ笑っても、海は笑わない」と訴訟を決心し、
ラストシーンでは、海辺の家に親子が集まって談笑します。
作り手が意識しているかどうか分かりませんが、
ソウルと束草という空間的な対比が、全編を貫徹しています。

これを「中心と周辺」という対比で読めば、
この映画が突こうとした対象を見失うことはないと思います。
私がこの考え方に接したのは「従属理論」でした
(懐かしい!アカデミズムで韓国を扱う際には必須でした)が、
他にも、「帝国主義の中心と周辺」とか、
「労働市場の中心と周辺」とか、よく使われていました。
要は、社会なり世界なりを同心円のイメージでとらえ、
周辺が中心の繁栄を支えていると考えることです。

こうした秩序は古代から、移ろいつつも広く見られました。
例えば東アジアの中華思想では、中原の王朝が中心で、
朝鮮や琉球やベトナムが周辺、日本は文明を知らない野蛮国でしたが、
20世紀になって、日本帝国主義という新しい中心が生まれ、
朝鮮や沖縄、東南アジアが周辺化されたように。
ただ、「中心と周辺」の発想が、1960年代のアカデミズムで
一大潮流を築いたのは、資本主義の膨張や、脱植民地主義、
南北(経済格差)問題に示唆的だったからです。

話を「もうひとつの約束」に戻します。
イ室長は、サングが妻を連れてくるべき場所を明示していません。
明らかなのは、「こちら側に来い」ということです。
その具体的な場所がソウルであれ、どこであれ。
こちら側に来て、文明的な生活をすれば、
娘の無念を晴らすなどといった感情論で、
無謀な訴訟を起こすなんて、馬鹿な真似はしなくなりますよ。
示談金を使って、そういう世界にいらっしゃい。
そういう言外の共通認識があるからこそ、
「どこ」が明示されなくてもセリフとして成り立つのです。

そこさえ押さえれば、この映画を観て、
「サムスンはブラック企業」とか「韓国崩壊」などといった
頓珍漢な方向には進まないはずです。
この映画は、サムソンとか韓国より、もっと大きなものを突いています。

これだけ言っても、分かろうとしない人もいるので、もう一言だけ。
私は基本的に、統計をいじったり調査をするタイプの人間で、
「帝国主義」だの「中心と周辺」だの、
観念論をこねくり回すのは好きではありません。
ところが、そんな私でさえ、「帝国主義」とか「中心と周辺」といった
概念を使わざるを得ないような現実が、2010年代の日本にはあります。
東日本大震災で、福島県にある
東京電力の原子力発電所が事故を起こしたことは、
確固として存在する中心と周辺の関係に気づかせてくれました。

裏日本出身の林原は、図らずも舞台となった
江原道の束草という場所のシンボリックな意味を
感じずにはいられませんでした。
映画をご覧になる方は、ぜひこんな点にも注目してみてください。
次のページ

FC2Ad